最初に並べた言葉たち。 「騒音」と書くとイコール「公害」と思いがちだが、耳から入ってくるこれらの「音」が果たして必ずしも全ての人に共通して「悪いもの」ではないという。 例えば石川はF1が好き。エンジンについて詳しい訳でもないけれど、レースのエンジン音は興奮する。おそらく同じものを観ていれば、その観ているという行為から、違うという人はなかなかいないと思う。 これが一般道路だったとしたら、それでも走り屋たちには快感かもしれないが僕は不快。昔から爆音がキライだから。 例えが悪い。 こういった特定のものじゃなく全体として考えた方が良いのかな? 同じ「音」でも人によって、もしかすると同じ人でも気分にってイメージが変わる。 踏切の音。車かなんかで急いでるときだとものすごく不快。 でも機嫌がいいと、自分のリズム感や音感を試し始める。(石川の場合) 本の中にはこういった騒音が都会で生きていくためには必要とまで答えた人がいるとか。 音がするところには人がいる。 あぁ、自分は生きている。 こういう感じ方で自分と外との区別をすることができる。 なら、全てが自分の波長に合う心地良い「音」だけになったら? ・・・もしかしたら自分の存在を確かめることができなくなってしまう? 自分と「外」の区別がなくなってしまう? おそろしいことだ。(考え過ぎ…) 話をずらすが、最近のニュースを目に、耳にする度に この「自己との区別」をする割合が増してきた。 ふんふんそうですね、っていうだけではおさまらない。 基本的にニュースに対して、マスコミ、「マス コミュニケーション」の感情論は必要ないと思っているから。 マスコミュニケーション【mass communication】 ・・・新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどのマス・メディアを通じて、不特定の大衆に大量の情報を伝達すること。大衆伝達。 ※大辞林より とまで書かれている訳だから、必要以上のリポーターやキャスター、記者のコメントは進行する上で「洗脳」効果のあることなんだと思う。 情報操作と紙一重だ。 あくまでも「情報」を伝達する。 それを情報をどう理解していくかは受け取る側に任せれば良い。 それができなくなったとき、ニュースは決してノイズになることなく、 自己との区別ができない「桃源郷」が待っているだろう(笑)]]>
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