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昨日はいたるところで晩ご飯をいただいてお酒を飲んだもんだから、いろいろまとまらないことを日記に書いていました。

なんでもそう。

なにか、物事が球体のようなカタチをしてるとして、必ずと言っていいほど、一回り大きい膜みたいなものがそれを覆ってる。

本質とガヤ、って区別してみてる。 ガヤ…ノイズとか視界を悪くしてる霧のようななにか。

例えになるかわからないけど、何か話題があって、本質にいるまさにそれっていう「本当の当事者」と、私もそれかもみたいななんちゃってさん。しかも、そのなんちゃってさんの方がなぜか当事者意識が強いというか、声が大きくて。

本質の質量が大きいほど、そうなのかもしれない、というのかな。 なんだか地球みたい。 地球とそれを覆う空気とその上に立つ生き物。重力で惹き付けられて。 地動説と天動説。思いやりと自己中。 そもそも本質の中にどれだけ曖昧さがいきてるかってのもかなり重要なのかもしれない。

「曖昧」の良さっていうのはそれなりにあって、僕は憲法9条に対しても少しその効力があると思ってる。 それを議論しているだけで解決しないわけだけど、そのおかげで戦争することから逃れられてるとも思っていて。それは解決しない議論を一生やっていてくれればいいと割と本気で思ってる。

歌詞書くとき、曖昧さを発信することで、聴き手の、受け手それぞれの中に本質が生まれてくれればいいなって、その本質を少し撫でれたらいいかなって思ってそうしてるつもりだからガヤとはちょっと違うつもりでいるんだけど、それは僕自身、自己正当化もあるかもしれない。

本質を守るためにわざわざガヤを作り出す必要もないし。 具体的な例がうかばなくて残念なんだけど…

多分ね、今はそういうの聞く気0%何だと思う。聞く時は聞いちゃうから(笑) そういうのは大事なことでもあると思うし。もちろん良い意味でもその人が「自分を守るため」に。「逃げ場」と言うやつです。 聞くと、その逃げ場を守ってあげなきゃって思っちゃうから。

でも、本当はそんなことしなくても大事にしたいのに。 それがあるからどうとか、 人の話を聞く聞かないと言う意味じゃなくて、同じくらい自分の直感とか見たまんまを信じることも大切なわけで。 誰かが言ってた、耳から入る情報に人は左右されやすい、こともあるって。 最終的な判断は自分。

冷たいのかもしれないけど、正直関係ない。 そんなの関係なくて、大好きな人は大好きで、嫌いな人は嫌い。

本質を目指してガヤに飛び込んで錯覚起こしてよくわかんないコトもある、人もいる。

何か決断をした時にガヤの影響を受けたと思われるのが一番嫌だから。 ちょっとほっといてほしい時もある。

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