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最近読んでいる本の中で、ダンサーと著者の対談があるのですが、 その中に、 人は、作品の動きや音楽の中に言葉、(もしくは言葉にならないかもしれないような)口から発せられた「音」を聞くと、まずその意味から捉えようとする。 言葉を理解することが、作品を理解するのに一番手っ取り早い方法だと思うから。 のような話がありました。 確かに。 意味はあるけど作品の流れの経過の一つであったりするにのにも関わらず、 ピンポイントで意味を求めにいく・・・。 それを読んで、ふと感じたこと。 「言葉と音楽で伝えてる自分と、その内側にもう1人違う自分がいて、 本当は少し違うことを考えていて、前者を仮の表現だと思う」 去年の暮れにNHKで放送された長瀬智也さんのドキュメンタリーを見て感じたことに少し似ている気も。 その番組内で長瀬さんは 「言い回しとか的確に伝えることよりも、もっと奥にある何かを表現したい」 と話していました。 その時自分は、もっともっと表現者として成長してみたいと思いました。 歌ってるんだけど、+αの何かを伝えられるのでは? も一つ。 HPにアップしてるデモ音源でもそうなんですが、 ああやって作った音源の自分の声に客観的に魅力を感じない。 ライブ音源の方がまだ聴ける気がします。 ライブのときのような曲への意識を作れてないだけかもしれませんが(笑) だから歌を聴いてもらうときは、やっぱり五感全部で伝えて受け止めてもらえる場所が好き。 それと同時に自分の歌が、 言葉足らずにしても、 何かを抑えた表現にしても、 もっと言葉の重さを感じなくてはいけない。 そしてテキストとしての言葉以外の表現?空間?がやっぱり大事なんだと思う。 とはいえ、自分の表現に対して同じ受け止め方をして欲しいわけではなく、 それぞれの受け止め方で満足だし、 伝えたいことを伝えきれないのは自分の未熟さからで。 だから学んでいくことが楽しいと思えるし。 何が言いたいんだか全くわからないです。(笑) でも、いつからこういう思考が始まったんだろ? 考え、言動、その他全てに意味を求め過ぎているのでしょうか? もしそうやってどこかに偏っていくのなら、それはそれで阻止しなければ!(笑)

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